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​呼子くんち復活あゆみ

呼子くんちの紹介

呼子町は九州佐賀県北端の港町。古代からの天然の良港として賑わっていまし た。現在はイカで有名ですが、江戸時代にはじまった捕鯨は、九州でも有数の鯨組として殿様を凌ぐほどでした。 呼子くんちは、このような港町で機会あるごとに山車を作っておこなわれていましたが、戦後は次第におこなわれなくなりました。

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呼子くんち復活のきっかけ

 

三代中尾甚六の安永 7 年(1778)に、長崎くんちの出し物として鯨の山車を提案し、その行事は 7 年に 1 度おこなわれ現代に伝えられています。また江戸時代、中尾家をたよって呼子に来た殿様には、鯨の飾り物を海に浮かべ捕鯨の様子を再現させて見せるなど、鯨の出し物はいつの時代も人気を博していました。

進藤氏はそれ以前から鯨の山車のデザインを考え製作をすすめようとされ、組織作りについても計画されていましたが、翌年に思い半ばで病に倒れられました。し かしその強い遺志はご子息の進藤さわと氏に引き継がれ、受け入れる神社や地元の人々と繰り返し打ち合わせをかさね、ようやく実現するところまで至りました。

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また山車の製作については、伝統的な和紙の素材技法にこだわったものとすることにしました。そこで京都の和紙作家堀木エリ子氏という、伝統的な和紙技法に革新を取り入れ造形に活かすことで世界的に有名な方に手がけていただくことにしました。

このような奉納者の歴史と伝統をふまえ、未来へつなぐ思いを受け止めて地域の再結束を実現させるために呼子くんちを復活させることとなりました。

新しい呼子くんちの内容

 

 呼子は江戸時代から戦後まで捕鯨の基地として賑わっていました。250年以上前の鯨組主の中尾家屋敷(佐賀県重要文化財)が今でも残され公開されています。このような歴史をふまえ、祭は次のような場面から構成されます。

 

1.江戸時代、明和 8 年(1771)に鯨組主中尾家が呼子八幡神社に奉納した御神輿を、250 年ぶりに中尾家屋敷まで渡御し祭典をおこないます。

 

2.新しく奉納された鯨の山車を子どもらが町内を曳いて練り歩き、道中では呼子の伝承芸能などで賑わいを添えます。

 

3.夕方には山車を内側からライトアップし漁船に移し乗せ、呼子湾内の弁天島まで巡り、親子くじらの弁天さん詣りの伝承を成就させ、諸々の鎮魂を祈ります。

 

展望・ビジョン

 

1.呼子くんちは、地域の歴史と伝統をふまえ、新たな行事として次世代を担う若い人を主役におこなわれます。また、少子高齢化と過疎化で衰退する呼子町の大綱引行事(国の無形民俗文化財)をはじめとする伝統行事の活性化を通じて、地域振興を支援します。

 

2.令和の御代替わりという新しい時代の幕開けをお祝いします。

 

3.現代に引き起こされている様々な自然災害、戦争やコロナ禍の被害をうけた人々に思いをはせ、改めて自然への畏敬と傷ついた人々の鎮魂を祈ります。

 お問い合わせ 

呼子くんちにご興味をいただき、ありがとうございます。ご意見・ご質問などございましたら下欄からメッセージをよろしくお願いします。

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​長崎くんち 万屋町の鯨(平成25年)
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